希望を持て!!

以前書いた「薄毛」の話。

実は3週間程前にアデランスの人に来てもらい、

ウィッグを注文しました。

オーダーメイドで1ヶ月程かかるらしく、出来上がるのには

あと2週間程かかります。

値段も高いといっても部分カツラだし、いっても25万ぐらいかな?

・・・と思っていたら、40万程かかりました。

毛の種類(人毛or人工毛)とか、大きさとか、裏地の種類によって

ここから10万ぐらい前後するんだけどね!

主人の知り合いで、こういったことをやってる人もいたので

そこでも見積もってもらおうかなぁ~、とも思ったけど、

(安い買い物じゃないから、1社で決めるのもねぇ?)

今後ウィッグにあわせて、定期的に髪の毛をカットしてもらわないと

いけないし、知らない人の方がワガママ言えるよね?

それに美容院って、唯一の主婦のリラックスタイム。

独身時代から心地良い店探しにこだわってきたから、

技術は勿論、綺麗な店じゃないと嫌だしね。

・・・ってことで、ここに決めました。

来てくれた女の人は、私と同じぐらいの年齢で、子供も1学年違い。

綺麗な人で、すごく感じの良い人でした☆

もちろん分割!

ホント、金食い虫の私を、いつも優しく包んでくれる主人には

感謝!!です☆☆

*******************************

それにしても、秋は行事が多いですね~!

帽子を被り、4つ程の地域&学校行事をこなしました。

「カジュアルボックス」http://www.casual-box.com/

という帽子のサイト、とても良いですよ!

室内で被っても違和感のない帽子をたくさん扱っています。

デザインもイマイチな、病人対象のようなサイトしかないのか・・

と諦めていましたが、執念で見つけました!

娘の友達もよく遊びに来るし、宅配はよく来るしで重宝してます♪

あと

「アダマス」http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/066cb644.a1225e83.066cb645.fc05a63e/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fadamas%2fho-5006%2f&m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fadamas%2fi%2f10000667%2f"

というサイトで、ホリスターのキャップを買いました。

2日後の学校行事で被りたくて、その日注文で翌日届くサイトだったので

すごく便利でした!

私ぐらいか、もっと若い人で、病気による薄毛に悩んでいる人、

よかったら利用してみてね!(^ー^)V

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検査の結果

そういえば最近の検査結果を載せてなかったね!

2ヶ月に1回の病院なんだけど、6月の結果は

       GOT 16

      GPT 24

      赤沈 25

      CRP 0、7

                  です。

8月の結果は、何故か手元に無い。

そして昨日の結果は

       GOT 30

      GPT 40

      赤沈 21

      CRP 0、8

                   でした。

肝臓も、別に悪い数値じゃないんだけど、

アラバの副作用で肝機能の値が上昇した時以外は、

ここ5年近く20前後だったのでめずらしい。

風邪をひいたり、帯状疱疹になったりした時はあがったけど、

今は風邪をひいてるわけじゃないしね・・。

気になるのは、おととい病院から帰って来た後の疲れ方。

もうぐったりで、(朝11時~4時まで病院。まだ早い方!)

帰って来てから夜7時頃まで寝て、あまりのダルさに夕食が作れず、

主人にお寿司を買って来てもらいました。

昨日もダルく、今日もとてもダルいです。

しかも全身に筋肉痛のような痛み。

肝臓も張ってるように痛いです。

アラバの副作用で肝機能の値が上昇してた時のような感じ・・・。

肝臓の方も見てもらわないとねー。

リウマチの方が大変だったので、引っ越してから1年間肝臓の方は

見てもらってないの。

一応肝機能の値の方も、リウマチの検査で出るからいいかな~

と思って・・・。

お金もかかるし、また病院に来るのも疲れるしね・・・。

紹介状書いてもらったんだけど、まだ行ってない。

同じ病院なんだけど・・・。

行かないとなー。

髪の毛のこともあるし、前途多難・・・。

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最近の悩み

最近の悩み。

それはズバリ!「薄毛」。

元々私は髪の毛の量が多い方で、十代~二十代の前半までは

美容院に行く度に、

    「多いですね~!!」

と言われるのが常だった。

それが25歳ぐらいから、急にペタンとしてきた。

そして今から5年前、33歳の時にインターフェロン治療をし、

その薬の副作用で、髪の毛がごっそり抜けてしまった。

前髪の上の部分の抜け方が特に酷く、地肌が透けて見える程だった。

医者からは、

     「治療が終わったら元に戻るから。」

と言われていたし、治療をしていた半年間は人と会うことも

ほとんど無かった為、特に気にしてはいなかった。

治療が終わり何年か経っても、さほど元に戻ったとは思えなかった

が、最近完全に禿げてきたのだ!

やはり以前ゴッソリ抜けた部分が酷い。

その部分がさらに抜けた感じ。

気がついたのは1ヶ月ぐらい前。

自分なりに、色々努力はしてみた。

     「毛穴に皮脂が詰まってるのかも!」

と思い、それを取り除くクレンジング剤みたいな物も買った。

シャンプーも、ビールエキスと蜂蜜が入った「ボリュームアップ

シャンプー」を買った。

私は23歳ぐらいの時から(いや、もっと前からか?)

髪の毛を茶色く染めていたけれど、それだと余計薄く見えるので、

1週間ぐらい前に黒く戻した。

そして大分高かったけど、女性用の育毛剤も買った。

分け目も、今までと同じ真ん中分けだと、完全に薄さがわかるので、

少し斜めから分けるようにした。

問題はまだある。

毎日髪の毛を洗わないといけないことだ。

1日洗わないと髪の毛がペタンとして、斜めで分けようが何しようが

地肌が見えてしまうからだ。

洗えば当然、髪の毛は抜ける。

でも洗わないと人前には出られない。

まさに悪循環。

原因は何なのか・・?

生活習慣が悪いと言えば、確かにその通り。

寝るのは夜中の1時ぐらい。

睡眠不足が原因なのか・・?

食事は昔と比べれば、バランスよく摂れてるはずだ。

特に有機野菜を買い始めた今年からは。

でも私はC型肝炎でもある為、鉄分をほとんど摂っていない。

食事療法をしているワケではないが、何故か私は貧血ギリギリの

鉄分摂取になっていて、C型肝炎患者にとっては、理想的な食生活

になっているのだ。

でもある人のサイトによると、慢性的な鉄分不足は抜け毛の原因になるとの事。

そのせいなのか・・・?

私は小さい頃から毛深くて、(勿論処理はしてるケド。)

20歳を過ぎてからは、顎や口の横に数本、男の人のような

黒くて太い毛が生えるようになった。

これは毎日剃るか抜くかしないといけない。

女性ホルモンが減少して、男性ホルモンがますます多くなってしまったのか・・?

それとも今飲んでいる(・・と言っても、もう1年半ぐらい飲んでるけど。)

リウマトレックスが原因なのか・・?

昨日病院だったので、先生に聞いてみた。

確かに副作用で、抜け毛というのも少しはあるようだ。

でもほとんど無いとのこと。

確かに病的に抜けているという感じはしない。

今まで抜けてたのが生えてきてない、という感じなのだ。

先生も

    「何が原因なのかは分からない。ただ疑わしきはやめる、

     (薬をやめる)としか言えない・・。」

というだけ。

このまま止まってくれたらいいけれど、これ以上抜けるようならどうしたら

いいのか・・・。

リーブ21に行くとか、ウィッグを作るとか・・。

なんか、ものすごくお金がかかりそう・・。

でもウィッグは真剣に考えている。

だってハゲてしまったら、そのままでは外に出られないもの。

作るのに日にちがかかるだろうから、近々相談に行こうかと思っている。

今週も元職場の後輩3人とランチの予定が・・。

3人のうち2人は、こっちに帰って来てから初めて(10年ぶり)会う。

2週間後は人前で喋る予定が・・・。

その時、もしハゲが進んでいたらどうしたらいいのか・・。

かしこまった場なので、帽子を被るわけにもいかないし・・・。

・・・何か考えただけで、ストレスでハゲてしまいそう・・・。

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最近の体調★

2週間程前、2ヶ月ぶりに病院に行ってきた。

結果は、CRP 0.5

赤沈 27

GOT 17

GPT 21

MMPー3 259.5

CRPは、前回が0.8だったから、さらに良くなってる♪

MMPー3は、引っ越してきたばかりの頃は、767.4だった

のだから、こちらも良くなってきている。

でも1年半前は、89.0だった。

検査の結果って、よく分からない。

今から4年前、ほとんど寝たきりの状態の時でも、

CRPは正常範囲の0.1だった。

炎症が蓄積して、ある時ドカンと上がるのか・・?

まぁ、検査結果&医者の言っている事に、一喜一憂する

つもりはないんだけどサ☆★

昼ご飯は、病院の敷地内にあるマクドナルドで。

マックフルーリーネスレクランチも食べてみました♪

チョコ&クランチが、惜しげもなく、たっぷり入ってマス♪

チョコ好きの娘は、こっちの方が好きそう!

私はオレオの方が好きだなぁ~★

今度は、キットカットに挑戦(?)だぁ~っ!!

(・・えっ?勝手にしろ・・?)

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風邪、猛威を振るう!②

何だか最近になって、急に寒くなりましたよね!(-。-+)

火曜日の夜中から私も熱を出し、ほとんど眠れず、翌水曜日。

この日も娘は休み。

私の方も、朝になっても熱が全く下がらないし、

娘の看病どころじゃない。

   「会社、休めないの・・?」

と、ダンナに何度も食い下がってしまった。

結婚して9年。

こんなことを言うのは初めてだ。

インターフェロン治療の時だって、1度も会社を休んでくれ

なんて頼んだことはなかったのに。

今回は一体どうしたことだろう・・?

ウチのダンナも、さすがに異変を感じたのか、

その日は午前中で仕事を切り上げ、午後からずっと看病にあたってくれた。

担任から電話が入るし、同じマンションの子が連絡ノートを持って来てくれたり、

生協が来たりで、その対応を全部やってもらったのでホント助かった!

******************************

実家の近くに引っ越して来たんだし、母に来てもらえば

話は早いのだろうけど、そうも行かない。

ウチの母は、ものすごく変わっている。

我が家は結婚1年目から食器洗い機を使っているのだが、

(だからもう8年。)母は全くこれを使うことができない。

使っている人は分かると思うけど、別に難しいものでも

なんでもない。

食器を一定の方向に並べ、洗剤を入れてスイッチを押すだけだ。

でも母はこれを使わず、自分で洗う。

しかも食器用洗剤は使わない。

何故だか分からないが、食器用洗剤が嫌いらしい。

しかも食器洗い用のスポンジも使わない。

洗剤を使わず、布巾で洗ったり、私がシンクや、排水溝?の

生ゴミ受けを洗っている「タワシ」で皿を洗ったりする。

そしてシンクは食器洗い用のスポンジで洗う。

真新しいスポンジも、すぐ真っ黒だ。

こんなことは、見て、常識で分かりそうなものだが、

何度説明をしても変わらない。

  「食器洗い機で洗うんだから、そのほうが除菌になって清潔なんだから

  何もやらないで!」

と頼んでも、

  「そうだよね~。(高温殺菌だから、その方が清潔だよね。)」

と言いながら洗っている。

洗剤やスポンジを使って、綺麗に洗えているのなら、手洗いでも

それはそれで良いのだが、母が洗ったあとの皿は、まだ油でギラギラ

していたり、茶箪笥から食器をだすと、カピカピになった食べカスが食器

にこびり付いていたりする。

洗濯物の干し方もさることながら、畳み方もメチャクチャだ。

畳んであるのかどうかが分からない畳み方。

端と端が揃ってなんか、当然ない。

ズボラな私が見ても、カッと頭にくる畳み方・・。

お分かり頂けるだろうか・・?(・・・って、分かるわけないか。)

だから母が来ると、何もされなくてすむように動きまわるハメに

なるので、かえって大変なのだ。

*****************************

翌日の木曜日。

娘はマスクをして登校。

私はその日の朝も、38度の熱。

前日はご飯を作ったり、寝室まで飲み物を運んできてくれたりと、

かいがいしく看病にあたってくれていた主人も、出勤の準備を始めた。

しかし食器は溜まり、家の中はグシャグシャ。

洗濯もしなくてはならない。

フラフラになりながら私が家事をしていたら、見かねた主人が

その日も午前中、休みをとってくれた。(っていうか、こういうことも

やっといて欲しかったよなぁ!)

午後からは36度7分ぐらいに熱も下がり、現在にいたっている。

当然まだまだ本調子じゃないけどサ☆

でも、病院に行かず、薬も飲まずに治したぞォ~!!

ウォ~ッ!!

気分はすっごく↑。

熱だして、「もう死にたい・・。」ってぐらいブルーになってた自分とは、

ホント別人だよなぁ。

恐るべし、風邪!

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風邪、猛威を振るう!①

今週の月曜日、娘は一旦登校したものの、

翌朝再び38度台の熱!

体温計で熱を測った主人から、そのことを知らされた私は、

  「・・・皆んなしてゆららをいじめるんだね・・!

   (主人&娘の事。←2人共、風邪をひいている。)

   頑張ってるのに・・!頑張ってるのに・・!」

と、泣き出してしまった。(アホか・・。)

母親なんだから、娘の心配をしろよ・・!って感じなのだが、

この時点で私も風邪をうつされ、かなり体調が悪かった。

娘も学校へ行き始め、やっと私も体を休めることができる・・、

そう思った矢先のことだったからだ。

私はほとんど外に出ないし、普段から気を付けている為、

風邪をひくことはないのだが、娘や主人がひいて私にうつす。

(元気に外で生活してるんだから、風邪ぐらいひくのも

仕方ないのにね!)

頑張ってるのに(気を付けているのに)うつされる。

そんな気持ちになったようだ。

(・・って他人事みたいに・・。)

午前中、病院に連れて行こうと思っていたが、

娘は一向に目を覚まさない。

起きると咳が辛そうだし、寝てた方が体には良いんだよな、

と思い、病院は午後から連れて行くことにした。

料理を作る元気も無かった私は、昼、お弁当を買いに

行くため、娘に声を掛けた。

  「何か食べたいものある・・?」

と聞くと

  「・・・ケーキが食べたい。」

と言うので、ケーキ屋さんでケーキを買い、

スーパーで果物やヨーグルト、プリンや、娘の好きなパンを

たくさん買い込み、帰路に着いた。

娘はまだ寝ている。

普段は熱があっても起きている娘が、朝食も昼食も食べずに、

ずっと寝ている。

こんなことは初めてだ。

   「死んでるんじゃないか?!」

と思い、何度も顔を見たほどだ。(失礼な・・。)

・・・結局、3時頃目を覚ましたんだけど。(^^;)

夕方になると母が来てくれ、娘を病院に連れて行ってくれた。

そしてその日の夜(火曜日)、今度はとうとう私が38度8分の熱をだした。

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Dsc00501 これは例の詰め放題の店で買ったお弁当です☆

何と一個¥263(税込み)!

これはハンバーグ弁当

Dsc00502 こっちは酢豚弁当

その他にも、肉じゃが弁当や、鶏肉のから揚げ&

ミートボール弁当鮭弁当等、いろんな種類があり、

そのどれもが、¥263

結構なボリューム。

そしてこれがまた、結構美味しいの♪

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疲れたぁ~!!

昨日は忙しかった!

昼前に家を出て、2ヶ月ぶりに病院へ行った。

病院へは、車で40分程かかる。

2時からの予約だけど、先に採血をして、

その結果を見ながらの診察なので、診察の1時間半程

前には、採血を済ませておかなければならない。

丁度昼時なので、私は採血を済ませると、病院内の食堂で

昼食を食べた。(ちなみに味噌カツ定食。)

そして外来にむかった。

時間は、1時45分。

以前すいていて、予約していた時間の15分前に呼ばれた

事があったので、ちょっと早目に行くようにした。

ドアの前には、いつも札が下がっているのだが、見ると

    「現在の診察、11:30予約の人」

    ‘・・・・え・・?うそぉ・・。’

・・・結局診察がまわってきたのは、4時少し前。

2時間近く、待った事になる。

元々私は、本さえあれば、どれだけ待っても平気なタイプ。

その日も、図書館で借りた三谷幸喜のエッセーを持ってきていたので

    ‘待ってる間に、1冊読めるな♪’

と思い、おもむろに本を取り出したものの、隣に座っていたおばさんに

話しかけられ、結局2時間ずっと喋ることになってしまった。

私は30代後半だけど、どちらかと言えば年より若く見られる方なので、

5、60代が多いリウマチの待合では、

    「あなたまだ若いのに、なぜリウマチに?!」

と、話しかけられることが多いのだ。

肝心の検査の結果は・・・

    CRP 0.8

    赤沈 27

    RF 64

・・・ね?かなりいいでしょ・・?!

12月の結果を、載せるのを忘れてたけど、

12月は

    CRP 1.8

    赤沈 44

でした。

ちなみに私は、C型肝炎でもあるので肝機能の方は

12月は

   GOT 18

   GPT 23

今回は

   GOT 17

   GPT 17

でした!

肝臓の方は、完全に正常値。

健康な人以上に、健康のようです!(^~^)V

*****************************

この日は、夜7時半から出掛ける予定があった為、

薬は後日、近所の薬局でもらう事にして帰りました。

それでも帰宅は5時過ぎ!!

すぐに食事の支度をして、子供に食べさせ、また出掛けて・・・。

もうグタグタでした~。(-。-;)

でも、こんなことが出来るのも、体調が良い証拠だよね♪

関節の方も、12月から急激に痛みが無くなってきたし、

暖冬だし!(地球が心配ではあるけど、リウマチの身には

有難い・・・。) 希望の春はすぐそこです♪♪

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そして現在

前述の薬は全く効かなかった。

じっとしていても関節が痛く、さすがの私も耐えられなかった為、

引越して2週間程経った9月の半ば、紹介状を持って新しい病院へ向かった。

病院はとても大きく、とても綺麗。

先生も優しい先生だった。

すぐにでも薬を増やして欲しかったが、検査をしてからじゃないとできないと

言う。(そりゃそうだ。)

仕方なく、その日は採決だけして帰り、2週間後にまた来ることになった。

2週間後の結果は、CRPが4.8(通常は0,3以下)、赤沈は57だった。

前述の薬に加え、

リウマトレックス2mg 週1錠(朝1)→週2錠(朝・夕1錠)

アザルフィジンEN 朝1錠→朝・夕1錠

に変更になった。

*********************************

2週間後。

あまり痛みに変化はないが、薄皮一枚、ラクになったかな?という感じ。

それが検査の結果にも現れていた。

CRP 3.2  赤沈 47

若干だが、数値が下がっていた。

確かに、2週間前に始めて病院に来た時は、

駐車場から病院までの距離を歩くのが辛く、途中何度も休憩をしていた。

しかし今回は、1度も休むことなく来ることができた。

また今まではじっとしていても痛かったが、じっとしている分には、

痛みはそれほど感じなくなっていた。

しかし薄皮1枚のこと。

そこで、

リウマトレックス 2mg 週2錠(朝・夕1錠)→週3錠(朝・夕1錠、翌日朝1錠)

そして ボルタレンサポ 50mg 就寝時1個

が追加となった。

ボルタレンは座薬で、夜寝る前に使うと、翌朝寝起きの痛みが

ラクになる人が多い、とのことだった。

そして、1ヶ月後の11月。

寝起きからの関節の激痛が、3割ほど減った感じ。(特に右肘)

痛みも少しラクになり、日常生活が普通に送れるようになってきた。

*******************************

引越しをしてから、地元の後輩、友人がたくさんメールをくれた。

ランチの誘いも何度かあったが、何やかや(古い?)言って、断っている。

インターフェロン治療をしたことは、大体の友人は知ってはいるが、

リウマチになったことは、ほとんど言ってないのだ。

・・というよりも、この1年、会うこともなかったし、私自身も

リウマチではなく、関節炎だと、1年ぐらい前まで思ってて、

そのうち治ると思ってたしね!

別に隠す必要もないので、今度会ったら、話の流れの中で話すと

思うのだけれど。

主治医の先生に、

   「痛みは、ここに初めてきた時と比べたら大分ラクになって、

   普通に日常生活は送れるようになったんですけど、

   人に会いたい、というところまでは、まだいかないですねぇ・・。」

(会いたいんだけど、相手も気をつかうだろうし、それがいやなのよねー。)

と言ったら、

   リウマトレックス2mg  週3錠(朝・夕1錠、翌日朝1錠)

    →週4錠(朝2・夕1錠、翌日朝1錠)

に変更になった。

・・・それから1ヶ月後の現在。

大分ラクになってきた。

アラバを飲んでいた時はホントによく効いて、痛みもあまり感じず、

正座もできたぐらいで、そこまでではないんだけどね~。

取りあえず、ボルタレンは今は使っていない。

使えば痛みも少しはラクになるんだけど、やはり毎日使うのには抵抗がある。

(1ヶ月使ってたら、拭くと、何かおしりから血がでてるし・・。)

これからは、外に出かける時にでも使おうかな?

・・ってことで、痛みは大分ラクになってきたのに、今は風邪で大変!!

1ヶ月程前に娘が風邪をひき、それをうつされる・・といういつものパターン。

今年は胃腸風邪が流行ってるみたいねー。

でも私は咳風邪!

皆さんも気をつけて下さいね!(*^~^*)

     

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病気でいる意味

関節の痛みが酷くなるばかりだったので、

今年の4月からは、前述の薬に加えて、

リウマトレックス 2mg を、週に1錠(朝1)飲むことになった。

そして朝・夕1錠飲んでいた、プレドニゾロン2mgが、

5mgになり、朝1錠になった。

それでも1ヶ月がたち、2ヶ月がたっても痛みは変わらない。

そうこうしているうちに、7月末に、主人に転勤の辞令が下りた。

結婚と共に三重に来て、約9年。(主人は15、6年?)

結婚当初は、3、4年ですぐに地元に帰ってこれると思っていた。

私と知り合った時は、主人も三重に来て6年が経っており、

     「大体10年ぐらいで転勤になる。」

と主人から聞いていたからだ。

しかし、5年が経ち、6年が経つと、だんだん不安になってきた。

年に1回申請(要望?)を出すのがあり、結婚当初から出してはいたが、

はなから要望を受け入れる様子はなかった。

怖いことに、主人の上司は名古屋出身で、奥さんは関西出身だが、

三重に転勤になって、25年以上。

結局奥さんの親を呼び寄せ、三重に家を建てた。

私達もそのコースか・・?

ますます不安は募る。

主人も

     「要望は出すけど、それ以上はどうしようもない。」

と、白旗をあげていた。

(ちなみにこの上司は、今から五年前に、25年目にして名古屋に

転勤になった。←単身赴任。)

********************************

そんな中、私達にも転機がきた。

4年前にインターフェロン治療をし、その後、関節痛で寝たきりのような

状態になった3年前から、真剣に転勤を願い出るようになったのだ。

主人が家事一切をしてくれる・・、といっても限界がある。

大体仕事が忙しくて、朝から夜中まで家にいないのだ。

子供の行事に出られるわけでもない。

そんな時、母が飛んで来てくれるのだが、(現在67歳)いつまでこんな生活を

続けるのか・・?70過ぎても車で通わせるのか・・?

そのうち事故って死んじゃうんじゃないか・・?(現に2、3回事故っている。)

そういう不安で一杯だった。

そんな中、私の体が不自由になり、逆にいい口実ができた。

  「自分は仕事が忙しくて、義母に通って来てもらっている。

  何度言っても車で来るので怖い。

  妻の病気も、すぐに治るものではない。

  実家の近くで見てもらった方が安心できる。」

ということを上司にも話し、人事権をもっている中部支社にも話した。

かなりゴタゴタがあり、3年という時が流れたが、やっと8月末に、

愛知に帰って来る事ができたのだ!

・・・だから変な話、私はリウマチになったことに感謝している。

そうでなければ、私はあのままずっと三重県にいただろう。

帰って来る為の仮の姿。

・・・さあ!帰ってきたからには、もう病気である必要はない!

あとは治すだけだ!!

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生きるということ

随分久しぶりの更新になりました☆ ごめんなさいね!

それにしても、「私の雑貨生活」とうたっているのに、

私の病気の記述が、随分長くなってしまいました。(^^;)

でもやっとゴールが見えてきた感じ!

次の回ぐらいで終われるかな・・?

正直言って、こんなに書くことがあったなんて・・、と

自分でも驚いています!(++)

この間、雑貨も随分買いましたので(!)、随時UPしていきますね☆★

**********************************

今年の1月からは、

  ・アザルフィジンEN 10mg 1錠(朝1)

  ・ノイロトロピン 4単位 4錠(朝・夕2錠)

  ・モービック 10mg 1錠(朝1)

  ・プレドニゾロン 1mg 2錠(朝・夕1錠)

を飲んでいた。

アラバが完全に体外に出たのは、3月頃。

アラバを飲み始める前より、薬の量が減っている為、

関節が痛くないワケが無い。

しかし何の手だてもないまま、数ヶ月が過ぎていった。

買い物は生協を取っていたし、主人の職場の隣には

大型スーパーがあった為、昼休みに買ってきてくれたりして、

不自由はなかった。

この1年、私が家を出るのは、月に1回、2つの病院に行く時と、

2週間に1度、図書館に行く時ぐらいだった。

そしてたまに、子供の授業参観や銀行に。

******************************

だけどこんな状態になっても、私はインターフェロン治療をしたことを

後悔していない。

客観的に考えれば、元々肝機能の値もそんなに高くなかったわけだし、

治療さえしなければ、リウマチになることもなかった。

結果的には、C型肝炎も完治したわけではないし。

・・・なのに後悔はしていない。一体何故なのか・・?

******************************

リウマチというのは「完治」がなく、「寛解」(進行が止まる)だそうだ。

でもそれは医者が決めたこと。

私は絶対に治る(治す)と思っている。

・・だから後悔しないのか・・?

C型肝炎ウィルスもいったんは消えたので、また治療をすれば、

完治する可能性が高いということを、治療をしたことで

知ることができたから・・・?

・・・もちろん、それもある。

「人間はいつ死ぬか分からない」

子供の頃、同じ病室にいた人達が死んでいく姿を見て、

そう思った。

だから、いつ死んでも後悔のない生き方をしたい、

と思って生きてきたつもりだ。

治療をすれば完治する可能性があるなら、それをやってみる。

自分の人生なのに、怖がって現実から逃避したり、

臆病になったりしたくはない。

何事も、追い詰められて実行するのではなく、

自分の人生なのだから、自分の意思で決める。

そうすれば、たとえそれがどんな結果であろうと、

いつでも満足して死ねるのではないか、と私は思っている。

病気でも、病気じゃなくても、病気が治っても、治らなくても、

ぶっちゃけて言えば、そんなことはどうでもいい!

どんな状態であっても、私にとっては大切な一日一日であり、

全部ひっくるめて、大切な私の人生なのだ。

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アラバの副作用

日常生活が普通に送れるようになったので、

娘の友達が家に遊びに来たり、また友達の家に

娘を連れていったりできるようになった。

しかし関節の痛みが随分ラクになった・・、とは言うものの、

全身の関節に筋肉痛のような痛みがあり、

夕方には体もだるくなるので、積極的には人に会いたいとは

思えなかった。

それでも必要最低限のこと、家事をしたり、子供の幼稚園の

行事には参加できるようになったので、不自由はなかった。

********************************

去年の4月のこと。

小学校の入学式があるため、娘の髪の毛を縛ってあげていたら、

指の関節が痛くて、なかなか縛れなかった。

その後も、桜のお花見に行った時、足首がとても痛く、

足を引きずるような状態になった。

そのことを先生に言うと、

      「アラバを試してみるか。」

と言われた。

看護師の説明を聞いていると、かなり副作用が強い薬のようで

心配になったが、どの薬が自分に合っているのかは、

試してみなければ分からない。結局使用してみることにした。

家に帰ってから、薬の説明書に

     ‘肝炎の人は服用しないで下さい’

と書いてあることに気ずき、驚いて先生に聞くと、

     「全然大丈夫ですよ。」

との返答だった。

多少不安が残ったが、今まで飲んでいた薬にプラスして、

アラバ20mgを、毎朝1錠服用することになった。

アラバの効果は絶大で、7月頃には関節の痛みを

ほとんど感じなくなった。

しかし2ヶ月がたち、副作用で皮膚の痒みを感じるように

なったので、7月の中頃には、毎日飲んでいたアラバが、

一週間に1錠になった。

が、9月頃になると、今度は肝臓の肝機能があがってきたのである。

そこで、アザルフィジン500mg1日2錠飲んでいたものを1錠にし、

すぐにアラバの使用をストップして、今度はアラバを早く体外に

出す薬を飲むことになった。

それでも肝機能の値は上がり続け、9月の終わりには、

最終的に200にまで上がった。(正常値は35以下。)

肝機能の値は10月から下がり始めたものの、

完全に正常値に戻ったのは12月。

結局アラバが体外に出るのには、2、3ヶ月かかったことになる。

しかしアラバが体外に出るのと同時に、(当然のことながら)関節の痛みも

激しくなってきた。

そこで、今まで1週間に1錠飲んでいたアラバ20mgを、

半分の10mgにして、1日おきに1錠飲むことになった。

しかしこれも、1ヶ月で止めることになった。

またしても、副作用のじんましんが全身に出たのである。

本当に、薬に敏感な体・・・、というほかない。

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心の声

この病院は、小さな個人病院なのに、

いつも人で溢れていた。

大病院に通っていた人達も、そこではラチがあかず、

評判を聞きつけて、この病院に通って来ているようだった。

そして一様に皆、「痛みが軽くなった」と話していた。

診察時間はせいぜい2.3分。

早ければ1分ぐらいだ。

二時間かけて来て、さらに待たされ、診察は1分・・・。

普通、納得できる話ではない。

しかし信頼できる医者なのか分からず通い続け、結果、

指の関節が変形してしまうよりずっといい。

実際に、大きな病院に長年通い続け、指が変形してしまってから

この病院に来たお婆さんは、

「最初からこの病院に来ていれば、こんな風にならなかったかもしれない。」

と言っていた。

*********************************

二回目に来た時のことだったと思う。

先生に急用が入り、その日は別の医者に見てもらうことになった。

そのお医者さんは、私の病歴を聞くと、

    「比較的早い段階で、決断してきてますね。」

と微笑み、傍らにいた看護師に、

    ‘今まで、良い先生に見てもらっている。’

と呟いた。そして傍らにいた娘に目をやると、

    「お子さんをだっこ出来ないのは辛いでしょう。」

と言った。

そして独り言のように話しだした。

    「・・・心臓の手術をしなかったなら、多分お子さんを産むことは

    できなかった。

    だから心臓の手術をした。・・・これは必要だった。

    その時の輸血が原因でC型肝炎になった。

    放置しておけば、肝臓ガンになるかもしれない。

    だから、インターフェロン治療をした。 ・・・これも必要だった。

    そして今度は関節の痛みが残った・・。」

そして私を見ると、

    「・・でも必ず良くなります!」

そう言って微笑んだ。

この先生の言葉は、まるで私の独白を聞いているようだった。

私の心の声は、まさに この言葉どおりで、

これらの言葉は、その後も、私を随分と癒してくれた。

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リウマチの発症

7月になっても、8月になっても、関節の痛みは消えなかった。

主治医の先生も毎回、

     「来月には消えるやろ~!」

と言うだけだった。

当時娘は幼稚園の年中で、車で30分程の所にある、

私立幼稚園に通っていた。

しかし私達が暮らしていた、1800世帯ほどのその住宅街には、

同じ幼稚園に通っている同級生は、一人だけしかいなかった。

娘はその女の子とも仲良しだったが、その子はピアノや、テニス、

スイミングを習っており、一緒に遊べる時間はほとんどなかった。

またその子に限らず他の子達も、英語やバレエや体操等、

習い事をいくつもしている子がほとんどだった。

幼稚園のお友達の家に遊びに行かせようと思うと、

家が離れている為、車で乗せていかなければならない。

こんな体の状態では無理だった。

実際のところ、どんなに治療が辛かろうと、痛かろうと、

そんなことは何でもないこと。

それよりも、毎日幼稚園から帰ってきて、

一人ポツーンとテレビを見ている娘の後ろ姿を見ることの方が、

何より一番辛かった。

********************************

腕が上に上がらない為、着替えも自分一人でできない。

マッサージにも行ってみたが、あちこち痛い為、

マッサージの人も、まともに触る事ができない。

主治医の先生も、湿布を出すだけで

     「来月には元に戻る。」

を繰り返すだけだった。

そんな時、主人の職場の上司が、良い医師の情報を教えてくれた。

その医師は、テレビや新聞や本にもよく登場する、かなり有名な

リウマチや難治治療の先生で、東京の病院に勤めているが、

親族が経営している三重県の病院に、月2.3回診察に来るということだった。

同じ三重県でも、その病院までは、車で2時間ほどかかる。

しかしそんなことは問題にならなかった。

それよりも、絶対に治してくれる、信頼できる医師に見てもらいたかった。

結局、つてのつての紹介で、9月に診察をしてもらうことになった。

事前に撮ったレントゲンを見て先生は、

     「骨がもろくなってるなぁ」

と言った。

関節の痛みでほとんど歩いていないため、そうなるのだった。

腕が上がらないことを言うと、両肩の関節に注射を打たれた。

・・・かなり痛かった!(その後、この病院に通っていた3年の間に、

4.5回肩や膝の関節に打たれることになる・・。)

この注射は、自転車にさすオイル?みたいな役割で、

骨と骨の潤滑油?みたいなものだった。

(即効性があって、劇的に改善されるが、もって3日・・ってトコかな?)

インターフェロン治療をして、今の私のような状態になる人は多い、

と先生は言った。

そして、

      「必ず治ります!」

と言ってくれた。

今思えば、先生が言う「治る」の意味は、「完治」ではなく、

一時でも痛みがなくなる、進行が止まった状態、つまり「寛解」

意味だったのではないか・・?と思っている。

しかしその当時は、その言葉がとても嬉しく、心からホッとした。

「リウマチです。」とか、そんな説明も特になかったので、

私達夫婦は、その後1年ほど、

「リウマチに似てるけど、リウマチではない関節炎」

だと勝手に思い込んでいた。

実際のところ、「私、リウマチなんですか?」と先生に聞く事は、

愚問のように思えた。

そんなことよりも、とにかく痛みを取ってくれさえすれば、

なんでもよかったのだ。

そして以下の薬が処方された。

    ・アザルフィジン  500mg ・・・1日2回

    ・プレドニゾロン  1mg ・・・1日3回

    ・モービック  10mg ・・・1日1回

    ・ノイロトロピン  4単位

薬が効き始めるのは、約3ヶ月後。

・・・そして12月。

的に痛みが軽くなった!

もちろん筋肉痛のような痛みはあるが、正座も出来るし、家事も出来る。

日常生活には、なんら差し障りない。

何よりも、自分のことが自分で出来る、ということが嬉しかった。

こんな状態が1年半ほど続いた。

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母の心

立ち直りの早い私も、さすがにこの結果に

意味をまだ見出せずにいた。

翌日母から電話があったので結果を伝え、

    「主治医の先生から、来年もう一度やろうって言われたわ!」

と言うと、

    「そう・・・。」

と言ったきり、母は黙り込んでしまった。

私以上に、ショックを受けているようだった。

しかし電話を切った後、5分もたたないうちに、またかけてきて、

    「お母さん、三重に住むから!一緒に頑張ろう!」

と言ったのだ。

・・・その一言に、私はかなりショックを受けた。

*******************************

三重での生活も5年目に入り、私達夫婦は、

家を買ってこちらに住もうか、と考えたこともあった。

・・・と言っても、両親がこっちに来てくれれば・・の話である。

4つ上の姉は長男のもとに嫁ぎ、栃木県で家を建てていたし、

3つ上の兄は、1年前に離婚をしていた。

兄も、仕事は自営業で真面目にやってはいるが、

すぐに再婚するとも思えない。

結果的に、両親に何かあった場合、通いで面倒を見る事になるのは

私だろう、と思っていた。

だったらいっそのこと、最初から一緒に住んだ方がいい。

しかし母は子供の時から今の地に住んでおり、

郷土への愛着がかなり強く、

    「ここから出る事は考えられない!」

と常々言っていた。

その母が、‘三重に住む’と言うのである。

私は胸がいっぱいになった。

本人以上に、体のことを気ずかい、悩む・・・。

「母の心」とはこういうものなのか・・。

    ‘母に心配をかけてはいけない!絶対に治してみせる!’

その日を境に、私は立ち直ることができた。

(人生最大の苦悩も、わずか2日・・・!)

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17%の壁

私は平成15年の3月末、リバビリン+インターフェロン治療を

無事に(?)終える事ができた。

5月頃だったと思う。

病院へ行った時、主治医の先生が言った。

    「C型肝炎ウィルスが復活してきとるなぁ・・!」

診察室のドアを開け、イスに座る前のことで、

私はまだ、心の準備ができていなかった。

心の動揺を抑えながら席に着いた。

インターフェロンの治療中、ウィルスがいったん消えたとしても、

治療後、2ヶ月程で復活してくることは、珍しい話ではなかった。

だから私は、治療後の一ヶ月に一回の診察を、

毎回ドキドキしてしながら受けていた。

それにしても、1ヶ月半で復活とは早い・・。

    「治療が終わったら、元の体に戻る。」

と言われていた関節の痛みも まだそのままだった。

肩が痛くて車の運転ができず・・かといってバスもステップ(?)

の部分が高く、膝の痛い私は乗ることが出来なかった為、

その日も病院へは、主人に乗せて行ってもらっていた。

少なくとも、元通りの体の状態でこの結果を聞いていたのなら、

もう少しショックは少なかっただろう、と思うが、

このヨロヨロした状態で聞くのは辛すぎた。

外のイスに座り、ボーッと風に吹かれていると、

主人が来て、

    「どうだった?」

と聞いてきた。

結果を伝えると、主人もショックを受けている様子だった。

それはそうだろう。

この半年、家事の一切を引き受け、共に戦ってきたのだから。

むしろ一番大変だったのは、私ではなく、主人の方だったのかもしれない。

私はショックな時ほど、表面上は落ち着き払ってしまう。

言葉少なな主人に、前から行きたかった、器も売っているCAFEへ

連れて行ってもらい、そこで今日の日の記念に?

小さなコーヒーカップを1つ買った。

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軽いうつ

この治療をする場合、「うつにも注意しなければならない。

大体、週3回も注射を打ちにいって、その都度インフルエンザの

ような状態。しかもそれを半年間も続けるのである。

そりゃうつにもなるだろうって話である。

しかしうつになってしまったら、治療をストップしなければならない。

ここまで頑張ってきたんだ。冗談じゃない!

しかし元々かなりポジティブな私も、以下のような状態だった。

かかってきた電話には出て、普通に話ができるのだが、

自分から掛けるとか、FAXを流すとか、そういうことができない。

ボタンを押すだけじゃん!と自分でも思うのに、それができないのである。

私の友達で、パニック障害の子がいるが、その子も

    「テーブルの上にあるコップを、台所に持っていこうと思うのに、

    それが出来なかった。そのことを医者に言ったら、‘軽いうつが

    出てたんだねー。’と言われ、‘私がうつ?!’とびっくりした。」

と言っていた。

そう考えると、私も軽いうつになっていたんだなぁ、と今になって思う。

大体、日中一人でいるわけだから、電話も来客も、

自分で応対しなければならない。

その相手の態度で、心をかき乱されるのである。

   「こういう状態だから、半年間は地域の集まりには出る事はできない。

   この期間は治療に専念させてほしい。」

そう何度も言っているのに、

   「調子のいい時に出てもらえばいいから。」

   「(私達の)息吹を感じてもらえればいいから。」

と、勝手に入場券がポストに入っていたりする。

私だって行ければ行きたいが、そんな次元の(体が)状態ではない。

大体、今は病気を治すために治療をしているのである。

無理に外出して、翌日の注射が打てなくなったらどうしてくれるのか?

治療を始めて三ヶ月後には、とうとう階段の登り降りも

限界になって、二階にあったベッドも、一階に下ろした。

*******************************

また治療があと二週間で終わる、という時に来た人は、

開口一番、

    「鼻(の頭)が四角い!!」

と言った。

・・・・悪かったね!このごつ鼻は、父譲りなのっ!!

しかし2,3ヶ月ぶりに来て、‘鼻が四角い!’とは何事だ!

大体皆、1、2ヶ月ぶりに来て、最初に言うセリフは、

    「ちょっと太った(痩せた)んじゃない?」

である。

痩せたから何なんだ?

太ったから何なんだっていうんだ?

他に言う事はないのか?

向こうはただの社交辞令?だろうが、来る人、来る人に

同じセリフを言われ続けるこっちは、もうウンザリである。

そして自分の言いたい事だけ言って、帰って行く。

結局この人も、私が復帰したあとの活動の事を、

ペラペラと勝手に話し、帰って行った。

他人にしてみたら、

   ‘あと二週間で治療が終わる’

と単純に思うのだろうが、その時の私は、その二週間が遥かに遠く、

治療を最後まで続けられる、とも思っていなかった。

   ‘今日こそは、もうだめだ!(病院に行けない!)’

という気持ちと、最後まで戦っていたのである。

********************************

二月には信頼している人から、かなりショッキングな告白を聞いた。

聞き始めた時、

    「やばい!(うつになる!!)」

と思ったが、多分私以外には話せない事だろうし、

今私が聞かなければ、その人の心は壊れると思った。

驚いた顔をすると話せなくなるので、平静を装った。

その人も、見た目に私が元気そうに見える為、

安心して話してしまったのか、それとも自分一人で抱え込むには

耐えられなくなって、私の病状を気ずかう事すら、出来なくなって

いたのか定かではないが、この話は私に、かなりのダメージを与えた。

丁度その日は、娘の幼稚園の、生活発表会の日だった。

県文化会館のホールを貸しきっての発表会。

すべての演目が終わり、フィナーレ。

年長さん達がもう卒園なので、父母への感謝の言葉を皆んなで暗誦したあと、

    「大きくなっても、覚えているかな?大きくなっても、覚えていたいな・・。

     ・・・ さーよならー、さーよならー。」

と、何とも悲しい歌の合唱・・。

*******************************

この日から約二週間、何を見ても何を聞いても悲しい、

という気持ちに支配されるようになってしまった。

くそ~っ!今まで頑張ってきたのに、こんなところで治療を

断念してたまるか!!

・・・何がきっかけだったかは覚えてないが、幸いそんな気持ち

からも、二週間ほどで脱出することができた。

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心の温かい人

私がそんな「要介護状態」だった為、

主人が一切の家事をしてくれていた。

三月に治療が終わってからも、その状態は変わらず、

その年の11月ぐらいまで続いた。

2.3ヶ月の介護ならともかく、ほぼ一年である。

しかし主人は嫌な顔一つせず、また疲れた顔一つ見せなかった。

そればかりか、時々弱音を吐く私を、いつも笑顔で励まし続けた。

ある日主人が私に言った。

    「これで分かっただろ・・?」

    (・・何が?)

と思っていると、

    「これから先、年を取って、もしも介護が必要な体になったとしても、

    僕はこういう風に(献身的に)介護するんだからね・・!

    ・・・絶対に見捨てないよ!

何かの折りに、私がこの時のことを主人に、

    「(覚悟が)すごいね。」

と言うと、主人はキョトンとした顔をして、

    「えっ?当然だろ?お互い苦しい時にこそ支えあい、

    生涯連れ添っていくのが夫婦だろ?僕は結婚の時にそう決意したよ!」

スゲー。

それに比べ、私ときたら・・・

当時から遡る事、一年前。

主人は痛風(笑)で動けない時があった。

当時の私は、毎朝の新聞配達、ボランティア団体の地域の責任者、

またその他にも、いくつもの事を兼任していた。

娘も当時は二歳ぐらい。

女の子とは思えないヤンチャぶりで、毎日ヘトヘトになっていた。

そこへ主人の痛風である。

一歩も歩けない状況が二週間程続いた。

すぐそこの物も取ることができない為、呼ばれ、

トイレへも肩を貸し、杖をついていく。

そして会社の送り迎え。

私はもう、自分の限界を遥かに超え、疲れ果てていた。

そこへ主人が、

     「・・・(今日の夕食は)○○が食べたいなぁ!」

と言ったので、ブチ切れてしまった。

     「いいかげんにしてよ!何で私が、こんな大変な思いを

     しなきゃいけないのっ!一体私が何をしたっていうの!!」

・・・もう最悪である。

しかし主人は反論することもなく、

     「・・・悪いなぁ・・。」

と本当に申し訳なさそうな顔をするだけだった。

この差!

こういう時、人間の本性が現れるものなんだよなぁ。

********************************

大体お付き合いをしている時からそうだった。

好きで付き合っているのだから、男性が女性に優しいのは当たり前。

私も今まで、‘優しい人だな。’と思った人は何人かいた。

しかし‘温かい人だな。’と思ったのは主人が初めてだった。

     ・・ってアレッ?・・・私、ノロケてる?

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母との葛藤

副作用はとても激しかった。

朝、目が覚めて起き上がろうとしても、肩も肘も手首もすべて痛い為、

体を起こすことが出来ない

主人に起こしてもらってイスに座っても、膝が痛いので

イスから立ち上がることが出来ない。(←これは今後も使えるように、

カタログハウスの「プロワークチェア」を買って解決。

イスが前傾するので、立ち上がることができるのだ。・・・エッ?

またカタログハウスかって?・・・別にカタログハウスの回し者では

ないのよ!他の通販もよく利用してるし。

でも返送料無料の「上得意様」になったぐらい、カタログハウスでの

買い物が多い事は事実。)

お風呂も同様に、指が痛いので、

自分で髪の毛や体を洗うことが出来ない

浴槽もまたげない

料理をしようと包丁を持っても、切った時の、「トンッ」という

衝撃で手首が痛いため、

料理も出来ない。(鍋やフライパンも持てないし。)

ひどい時は、膝の力がないため、大した段差もない

玄関のたたき?にも、上がれなかったし、

指が痛いため、変な話、トイレに行っても

下着を上にあげられない程だった。

車の運転は、病院に行かなければならない為、何とかしていたが、

乗り降りが大変だった。

膝に力が入らないので、まず車のドアを開けて座席に座ると、

足を両手で、1本1本車に乗せた。

主治医の先生にそれらの事を話しても、

      「それは副作用だから仕方がない。」

と言うだけだった。

********************************

母は大体、二週間に一度来てくれた。

そして一週間ほど滞在をして、帰っていく。

      「大変な時は言ってね!すぐに行くから。」

そう言ってはくれていたが、大変なのは最初からで、

別に今に始まったことではない。

母は昔から多忙な人だった。

私には4歳年上の姉と、3つ違いの兄がいるが、

留守がちだった両親に代わり、姉がよく私の面倒を見てくれた。

幼かった私は、よくタンスの中から母の服を取り出して、

その匂いを嗅ぎながら眠った。

自分の子供が、今大変な治療をしているのだから、

母もずっといてくれてもよさそうなものだが、当時の母も

宿命の真っ只中であり、じっとしていられなかったようだ。

主治医の先生も副作用については、

     「個人差はあるけど、何ともなくて、ピンピンしてる人もいますよ。」

と、ポジティブなことしか言わなかったし、

私もこの治療をするにあたっては、医師の説明だけに頼らず、

専門書を何冊も購入して勉強をしており、ある程度覚悟はしていた。

・・・が、こんなにも大変なものだとは正直思っていなかった。

     「入院する最初の三週間は大変だろうから、人の世話にならないと

     いけないけど、あとは自分だけで大丈夫!」

そう思っていた。

だから帰ろうとする母に対しても、

     「この治療をすると決めたのは私であり、誰かの世話になろうなんて

     最初から思っていなかった。だから、母を責めるのもおかしいし、

     あてにするのもおかしい。」     

そう自分に言い聞かせていた。

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副作用の対処法

10月から治療を始めて一ヵ月後の、11月末には

C型肝炎ウィルスは消失した。

もちろん完治を目指して治療をしていたわけだが、

発病から23年余りが経っており、実際のところどうなんだろう?

という気持ちもあった。

だからとても嬉しかった。

治療は3月末まで。

しかしいったんウィルスが消えても、治療が終わったあと、

2,3ヶ月でまた復活してくる、ということも少なくない。

油断は出来ないが、完治の可能性がある、という事実は嬉しかった。

**********************************

リバビリンとの併用療法の副作用は、インターフェロンの

単独療法よりも激しかった。

まず1月には髪の毛が抜け始めた

シャンプーで髪の毛を洗ったその両手に、たくさんの毛髪が

束になって抜けているのである。

髪の毛を拭いたり、髪を整えても、その都度バサバサ抜ける。

治療後は元に戻ると言われたが、頭頂部は完全に地肌が透けて見え、

真剣にウィッグの購入を考えたほどだ。

関節痛の方も、注射をしない日も残り、その痛みは全身の関節に及んでいた。

まず足首や踵の痛みはすごく、トイレに行きたくても歩けない程だった。

しかしこれは、カタログハウス「フット楽スリッパ」を購入したら、

嘘のように解決した。(以下、商品名等、間違ってたらゴメンナサイ。

調べ直していないので・・。)

全く問題なく、歩けるようになったのである。

このスリッパは、確か整形外科医かなにかが考案したもので、

衝撃吸収のソールになっていた。

しかし室内はOKでも、外を歩く場合は困る。(・・・と言っても、病院と子供の

お迎えだけだけど。)

しかしこれも、カタログハウスの「ウォークイン外履」で解決した。

(これも同様に整形外科医考案のもの。)

ただその頃は、痛みで足の指や甲が腫れ上がっていたので、

靴に足が入らなかったが、腫れがひいてからは重宝した。

普通の靴では何歩も歩けないのに、その靴だと歩ける為、

その後1,2年はオールシーズンその靴を履いていた。

膝も痛い為、杖も買った。

しかし体を支える肘も手首も、肩も指も痛い為、あまり役には立たなかった。

この治療で役にたった物。

リップクリーム。それもメンソレータムの、ジェル状のもの。

(高熱で唇が乾燥するので。)

あと冬だったのでカイロや、レンジでチンしてぬいぐるみのようなもの

に入れる、「ゆたぽん」も重宝した。

やはり痛い時に関節に当てると、痛みが和らぐような気がした。

それから、お風呂にゆっくり入るのも効果的だった。

あと熱が出るので、冷えピタ

踵や膝のサポーターも買ったが、それより湿布の方が効果があった。

(それもモーラスという、病院でだしてもらう湿布。)

2月には肩が上に上がらなくなり、洗濯物を竿に干せなくなった。

その頃には、家事全般を主人にしてもらっていたが、

後に、カタログハウスの「6翼物干し」を買った。

高さが低めなので、腕が上がらなくても洗濯物を干すことが出来る。

またキャスターが付いているので、急に雨が降ってきても、

そのまま室内に取り込む事が出来た。

その他、衣類なども、自然素材のもの等、肌触りの良いものだと、

不思議と痛みが和らぐような気がした。

今まで色々な物を購入してきたが、何より嬉しかったのは、

何を購入するにしても、主人の反対が全くなかったことだ。

私はこれらの便利グッズによって、大変ながらも、この闘病生活を、

より快適に過ごすことが出来たのだ。

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インターフェロン治療②

インターフェロンは筋肉注射で、肩に打つ。(お尻でもいいみたいだけど。)

筋肉注射は、基本的に誰が打っても痛いものだけど、

上手な看護師だと、ほとんど痛みを感じなかったりする。

ともあれ小5の時、心臓の手術をしたあとに打っていた筋肉注射

と比べたら、全然平気だ。(注射を打ったあと、そこをすごい勢いで

揉むのである。何かよく分からないけど、硬くならないように・・らしい。)

インターフェロンの注射は、週3回打つ。これを半年

最初の3週間は入院をして、毎日打つ。

副作用は個人差があるようだが、基本的にインフルエンザに

なった時のような感じである。

悪寒、関節の痛み、頭痛、高熱、・・・等々。

私の副作用は、とても激しいものだった。

初めて打った時のことは、今も忘れられない。

39度の熱と、激しい関節痛&頭痛に、ベッドの上を転げまわった。

身の置き所のない痛みとは、こういうことを言うのか、と思った。

38度5分を超えたら看護師が血圧を測り、座薬を使うことができる。

しかしこの関節痛は、熱が上がり始める頃におこってくるもので、

38度を超えると、嘘のようにスッと無くなる。

だから、痛みが去ってから痛み止めの座薬を貰っても、全然意味ないのである。

しかし熱は高いままなので、熱を下げる為に毎回使っていた。

退院後は、車で五分の個人病院に、週3回注射を打ちに通った。

総合病院へは、月に1回行く。

ヘモグロビン値が低くなると、貧血をおこし、治療が続けられなくなるので、

病院にいる管理栄養士の人に、毎日のメニューを書いた紙を見せ、

栄養指導を受けていた。

熱は、注射を打って3時間ぐらいすると出てくる。

私は毎回、38度5分~39度ぐらいの熱が出た。

治療を行う前の主治医の説明では、注射を打ったあとに出る高熱は、

一ヶ月ぐらいで体が慣れて、微熱になってくる・・という話だったが、

私は結局、最後まで微熱になる事はなかった。

普通こういった治療をする場合は、家族の協力が必要だ。

体力をつける為の、栄養のある食事作り。

病院への送迎。

子供の世話。

私はこれらを、すべて自分でやっていたわけだが、これから治療をする人は、

絶対、絶対、誰かにお願いをした方がいい。

一日おきに、インフルエンザ(のような状態)である。

注射を打てばそうなることが分かっている為、病院に行く決意をする

のも大変。

心の葛藤の末、毎回午前の部が終わるギリギリの時間に、病院に滑り込んでいた。

      「今日も勝った・・。」

注射を打ってもらった後、いつもそう思った。

半年、という長いスパンで考えることはできなかった。

      「もうダメかもしれない」

そう思う自分との、一回一回の戦いだった。

しかし誰かが乗せて行ってくれたなら、あんなに逡巡することはなかっただろうと思う。

***********************************

この治療をする人は、大体10キロぐらいは体重が減そうである。

確かに食欲が無くなるので、頷ける。

   (でも私は反骨精神(?)が強く、無理やり(?)食べた為、2キロ程しか

   減らなかった・・。)

娘は当時年少で、幼稚園に通っていたが、送り迎えはスクールバスだった

ので助かった。

先生にお願いし、家の前で降ろしてもらうようにした。

(しかし家の前でも、迎えに出ていなければならず、大分待たされる

こともあり、辛かった。)

しかし一番辛かったのは、電話や訪問者だ。

電話は二階に子機がある為まだいいが、訪問者の場合は本当に辛かった。

宅配や、子供会や、地域の関係の場合がある為、出ないわけにはいかない。

当時住んでいた借家は、もちろんTV付きインターホンなどではなく、

ドアを開けず、声だけでやりとりできるインターホンでもなかった為、

チャイムが鳴ったら、ドアを開けなければならなかった。

二階からやっとの思いで降りたが、セールスだった・・なんて時は、

本当に頭にきた。

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肝生検について

「ラクトフェリン」の錠剤は、直径2cm程のラムネのような

錠剤になっており、噛み砕いて食べるようになっていた。

味はヨーグルト味にしてあり美味しかったが、噛み砕いて唾液と混ざると、

とたんに‘ネチャッ’と歯にへばり付き、とても厄介だった。

この先生は、「ラクトフェリンが肝炎ウィルスの駆除に有効である」

事を発見した人で、先生の話によると、半分程の人はこの錠剤だけで

ウィルスが減少する、とのことだった。

副作用も全く無い。

私はインターフェロン治療を始める2ヶ月前から、このラクトフェリンを

試したが、私には全く効く様子がなかった為、結局ラクトフェリンを摂取

するのはやめる事になった。

C型肝炎ウィルスには4つの型があり、私はインターフェロンが効きにくい

とされている1b型

また高ウィルス量の、いわゆる「難治性のC型慢性肝炎」だった。

リバビリン+インターフェロン治療をしても、完全にウィルスが消えて

完治するのは、17%

でも治療を決めたのは、たとえダメだったとしても、この治療をすると、

肝臓ガンに移行する%を減らすことができるというデーターがある、

ということと、(つまりムダでは無い、ということ。)何より子供にとって、

物心ついた時から、「健康なお母さん」でいたかったからだ。

ともあれ今から4年前の、平成14年10月、「リバビリン+インター

フェロン」を開始した。

治療期間は、半年間。

最初の三週間は、入院をして治療をした。

その間は母に来てもらい、娘の事や家事をお願いした。

家の食事も、生協とヨシケイに加入をしておいた。

入院して最初にした肝生検(肝臓の細胞を採って、炎症の度合い

を調べる検査)は、小5の時にしたのとは大分違っていた。

小5の時も「原因不明の肝臓病」と言われていた為、調べる為に

肝生検をしたのだった。

昔も局部麻酔だったが、その時は麻酔がほとんど効かず、激痛で、

時間もかなりかかった。

手術台のような所に横になると、その台が回転し、私はほとんど

立っているような状態で、腕も頭の上に上げさせられていた。

その異様な格好。

また私の周りには、婦長や医師が2.3人いて、ガラス越しに母と

医師がおり、今から何が行われるのかと、子供心に恐ろしかった。

ガラスの向こうにいる医師が、

    「はい!息を吸ってぇ~!吐いて~。・・はい、止めて!!」

と指示をし、息を止めた瞬間に、脇腹のあばら骨の下あたりに指した

注射針のような物で、肝臓の細胞を採るのだ。

まさに引っ張って採る、という感じで、引っ張った瞬間、肝臓が動くのだろう、

しかし私の感覚では、お腹の中全体の内臓が、

    ‘グチュチュグチュグチューッ!!’

といって動いている状態で、とても気持ちの悪いものだった。

それを何度も繰り返す。

その壮絶な記憶がある為、インターフェロン治療よりも、むしろ

その前に行う肝生検の方が、私にとっては恐怖だった。

しかし当時と今とでは随分変わっていて、時間もあっという間だった。

格好も普通に横になったまま。腕も少し上げる程度だ。

医師は2人いて、

    「吸って~吐いて~。はい、止めて!」

・・・この瞬間に肝臓に麻酔をし、(これがすごく痛い!)その後、

もう一度同じように呼吸をしたあと、肝臓の細胞を採る。

多分痛みはもう無いのだろうが、針を刺す時の衝撃がすごい。

    ‘ドスッ!!ドスッ!!’

という感じで、まさに、

     「うっ・・・。・・・やられた・・・。」

・・・私は本当に思う。‘ヤクザに刺されたのと変わらないよなぁ・・。’と。

相手が医師か、ヤクザかの違いだけで、受けた衝撃は変わらないよなぁ、と。

治療(検査)だと思ってるから、耐えられるんだよなぁ、と。

  

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インターフェロン治療①

結局私はC型肝炎ではあるものの、肝臓の肝機能の値は

正常値だった為、2,3ヶ月に1度採血をして、経過を見ていく事になった。

けれどもその病院には、肝臓の専門医はいなかったし、

院長も毎回、ただ同じ話を繰り返すだけで、私にとって有益な情報は

何一つ得られなかった。

採血をして経過を見るだけなら、どこの病院でも出来る為、

私は近くの診療所に場所を変えることにした。

***************************************************************

私は子供が生まれてから三年間、毎朝、新聞配達をしていた。

また地域のボランティアの責任者をしていたり、その他諸々、

超多忙な毎日を送っていた。

独身の時も、朝から夜中までいそがしかったが、

出産後は、何か疲れが残り、どうしようもなくダルイのである。

その頃から肝機能の値もジワジワ上がり始め、70を超えるようになってきた。

(正常値は35以下)

本当に肝臓の悪い人にとってみれば、これもまた大した数値ではないが、

ずっと正常値を保ってきた私にとっては、ショックだった。

医者は、

    「これぐらいの数値でダルさを感じるはずはない。」

と言ったが、肝炎と20数年付き合ってきた本人にしてみたら、

    「この疲れ方はちょっと違う。50は超えてるな・・。」

と、微妙に分かるのである。

ちなみに肝炎の数値は、ウィルス性の病気(風邪等も)にかかったりしても

あがる。上がったり下がったりと常に変動するので、そんなに数値に

一喜一憂するものでもないが、独身の時は、それほど大きな変動が

なかったので心配になってきた。

出産から3年がたったある日の事、大家さんの都合で、今まで借りていた家を

出なければいけなくなり、引越しをする事になった。

(引越し、といっても、主人の通勤の関係もある為、市内だけど。)

その頃にはインターフェロン治療も、保険がきくようになっていたし、

ボランティアの責任者の後任もたった為、これを機に治療に踏み切ることにした。

車で35分程の所に、出産した所とはまた別の総合病院があり、

そこにはC型肝炎の治療の分野では、結構知られている先生がいた。

その先生のもとで、私は「リバビリン」という飲み薬と、「ラクトフェリン」

を大きなラムネのような錠剤?にしたもの、そして「インターフェロン」

の注射。この3つを併用した治療をする事になった。

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患者の気持ち

病院は6日で退院した。

振り返ってみるとこの病院は、本当にお粗末な、機械的な、

冷たい病院だった。

   「難産だったし、もう二度と子供は産みたくない。」

退院後、折に触れ私がそう言うと、決まって主人は、

   「あれは病院のミスだよ。あの時、ちゃんと針が入っていたら、

   あんなに出産に時間がかかることはなかった。」

と言った。

実は、陣痛促進剤の点滴も、あの病院は失敗していたのである。

その時私は、子宮口の開きが8cmというところから出産がなかなか進まず、

19時間が経過していた。

   「陣痛促進剤の点滴をもう一度したら、あと二時間程で産まれますよ。」

そう言われ、私はもう一度点滴をすることになった。

点滴をして、随分たった時、主人が、

   「ゆららの腕が、倍の太さになってる!!」

と叫んだ。

点滴の針が、正常な血管に入っていなかったようで、

信じられないことに左腕だけが、嘘のように倍の太さになっていた。

私は痛みで、ウンウン唸っていたので気がつかなかったのだが、

ずっと腰をさすったり、手を握ってくれていた主人が気がついたのだ。

すぐに看護師を呼び、点滴をやりなおしてもらった。

そんな状態だったので、強い陣痛はすぐにくることはなく、

二時間で産まれるどころか、それから10時間もかかってしまった。

*************************************

今思えば、狐目の看護師の名前とか、ちゃんと覚えておけば良かった!

泣き寝入りしちゃダメだよな~。

仕事に疲れてイライラしてたのか、それともC型肝炎への差別で、

優越感を感じていたのか、それは分からないけど、

医師にも看護師にも、あんな事を言われる筋合いはない。

大体C型肝炎は、小5の時に行った、心臓の手術の輸血でなったものだ。

・・と言っても、ほんとに輸血だったのか、それこそ話題の「血液製剤」だったのか、

それすら定かではない。

母は私の手術の時、医師から

    「B型の人を5人連れてきて下さい。輸入の輸血は使わず、

    その人達から輸血をします。」

と言われたそうだ。

その人達は現在も、皆健康で、もちろんC型肝炎でもない。

医師の言った通りならば、私はC型肝炎に感染するわけがないのである。

輸入の血液(輸入でなくても)を使ったのか、それとも血液製剤を使ったのか、

今となっては知るすべもないが、はっきり言って、これは「人災」である。

聞いていた話とは違うのだから。

「原因不明の肝臓病」と言われていた、子供の時から私は、

‘医療側による人災’という思いを押し殺し、

    「この病気になったのは、誰のせいでもない。誰も恨みたくはない。

    これは私の宿命。治せばいいんだ。治せばそんなことを考えなくてすむ。」

そう思ってきた。

だからと言って、医療関係者は、

    「私は関係ない」

ではすまされない。

患者の気持ちは、そんな簡単なものではないのである。

差別やイジメと向き合い、戦ってきたのである。

ましてや関係ないからと言って、侮辱するなんてもってのほかなのである。

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C型肝炎の告知

私が入院していた産婦人科の病室には、1部屋に1つ

トイレがついていた。

同室の人は皆、便器の横に置いてある入れ物の中に、

使用済みの産褥ナプキンを入れていたが、私だけは、

棚の扉を開けた、別の所に入れることになっていた。

シャワーも同様で、使用する前に看護師に一声かけ、

(当たり前だが血はちゃんと流し)、使用後も「今、出ました。」

と報告しなければならなかった。

狐目の看護師からは、

    「あなたは感染だから。」

と言われただけで、他に何の説明も無かった。

翌日、‘心臓の手術をしたことがある。’ということから、

大事を取って、内科を受診することになった。

結果として私はそこで、自分がC型肝炎である、ということを知ることとなる。

その先生は年配の男の人で、名札には、「院長」と書いてあった。

    「あなたはC型肝炎なんです。」

という説明も何もなく、院長はいきなり、C型肝炎について説明を始めた。

    「このまま放置しておくと、肝硬変から肝臓ガンになり、死ぬ。」

(・・・死ぬ可能性がある、とか、言い方ってもんがあるよね~。)

    「唯一助かる方法は‘インターフェロン治療’だが、効果があるのは3割程度。」

    「高額治療で、今はまだ保険が利かない。」(これは8年前。今は利くよ。)

・・・・ と、いきなり希望の無いことばかりを羅列し始めた。

‘私のことを言っているのだ’、ということも、話の流れでわかった。

さらに話は続く。

    「C型肝炎は日常生活で感染することは無いが、あなたの血液が、

    大量に他の人の体内に流れ込んだら、感染しないとは言い切れない。

    だからあなたは、交通事故にあって、大量の血を流しても、

    他の人には触らせずに、その血は自分で処理しなければならない

    (・・・!)。」

・・・・最後の部分なんか、今聞けば、「そんなアホな・・!」である。

でもこれらのことを、変な話、院長は

「自分の知っている知識を披瀝するように」「自慢気」に、

笑顔で」話したのである。

    「・・・先生それじゃあ、死んじゃうじゃないですかぁ~!」

ものすごくショックを受けているのに、笑って答えていた私も私。

バカである。

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ドクターハラスメント②

二日目の午後。

娘の体重が減り始め、さすがに少しの白湯が与えられた。

三日目の朝。

同室の一人が退院するようで、初めてカーテンが開いた。

眼鏡をかけ、ふっくらとした優しそうな人だった。

  「退院する。」

ということで、同室の人が皆、自然とその人のもとに集まった。

話し始めると、皆、病院の不満を口にした。

退院する人は、旦那さんに粉ミルクをこっそり買って来てもらい、

赤ちゃんに与えたそうだ。

でも粉ミルクだと、ウンチの色が変わる為、すぐ看護師にばれ、

こっぴどく叱られたそうだ。

もう一人の人は、一人目も家から近いのでここで産んだそうで、

今回は、母乳がすぐ出るように、別のところでマッサージを受けてから

出産に臨んだ、とのことだった。

マッサージを受けた人以外は、やはり三日間子供が泣きっぱなしだったそうで、

私は丁度一段落した後に入って来たのだった。

 三日目になり、私もやっと母乳が出始め、娘もお腹が一杯になると

スヤスヤ寝てくれるようになった。

もう子供の泣き声に神経を使うことは無くなったが、

希望していた個室が空いた為、私はそちらに移動した。

***********************************

 変な医師や看護師が多い中で、ひときわ意地の悪い、

狐目の看護師がいた。

 子供を産み、娘を同室に連れてこられてすぐのことである。

子供を産んだ直後のドサクサに紛れ、母も病室の中にいた。

    「・・・ちょっとあなた!」

母が看護師の肘をトンッとさわった。

    「この子に布オムツのつけ方を教えてあげて。」

娘が寝かされているカートの下には、布おむつと紙おむつが入っていた。

ここは総合病院である。

オムツの替え方等は、ファイルに図解してあり、

それを見て自分でやることになっていた。

それに本人に悪気はないのだが、母の口の利き方は、

時にぶっきらぼうで、誤解を生むことが多い。

私は母に、

    「ファイルを見てやることになってるのよ。」

と静止した。

    「いいじゃないの、別に聞けば・・。」

狐目の看護師は‘ムスッ’とおし黙ったまま、乱暴にオムツをはずし、

娘の両足を、高く上に吊りあげると、ほとんどおしりを拭かずに

「紙おむつ」を付け、黙って出て行った。

この間、数秒。

母も私もあっけにとられた・・というより、私は涙がこぼれた。

29時間もかけ、命がけで産んだ子である。

もしかしたら産めないかも・・と思っていたのが、自然分娩で産むことができ、

(もう少しで帝王切開になるところだった。)感動もし、宝物のように思っているのに、

その子をぞんざいに扱われ、とても悲しくショックだった。

その後も狐目の看護師は、私が横になっていると黙ってやってきて、

黙って産褥ナプキンを替え、黙って私の中に何物かを入れた。

ちょっとびっくりの行動である。

何を入れたのか、大体察しはついていたが、

ずっと無言なので、会話になればと思い、

   「今入れたのは、痛み止めですか?」

と声をかけると、

   「あなたが先生に(痛み止めを)頼んだんでしょ!!」

・・・挑戦的な返答だった。

さすがに温厚な(?)私も頭にきて、注意をすると、

突然看護師は、関係のないことを言い出した。

   「ゆららさん、あなたは感染だから、産褥ナプキンも他の人とは

   別の所に入れて下さい。シャワーも、入る前と後に、看護師に

   言ってくださいね!」

狐目の看護師は、不敵な笑いを浮かべると、去っていった。

   ‘・・・感染?感染って何だろう・・?’

何か性病・・・?(そんなワケないけど。)

負けん気の強い私も、怖くて何も聞けなかった。

それは翌日知ることになる。

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ドクターハラスメント①

子供を産んだのは、近くの総合病院だった。

料理が美味しいことで評判の、個人病院の方がよかったが、

心臓に不安があった私は、出産時に何かあった場合でも、

総合病院ならすぐ対応してもらえて安心だろうと思い、そこに決めた。

子供は、予定日を9日過ぎても出てくる気配がなかった、

検診時に先生から、

   「多分、現在3600g程あります。このままだと4000を超えるので、

   陣痛促進剤を使いましょう。」

と言われた。

   「 ・・・4000?!! ただでさえ出産に不安があるのに、

   4000gもあったら難産に決まってる・・!」

恐ろしくなった私は、日にちを決め、病院に行った。

   ・・・・しかし、出てきた子供は2900gだった。(体重は14キロ太ったのに

子供は2900g・・・。あとは全部ぜい肉だったのね・・・。)

この病院は、母子同室で完全母乳の病院だった。

出産に29時間かかった私は、丸一日寝てなくてフラフラだったが、

看護師はすぐ子供を連れて来た。

すごい勢いで泣いている。

   「おっぱいをあげて下さい。」

そう言われ、乳首を吸わせても、出てこないのか、

吸っては泣き、吸っては泣きしている。

私の部屋は3人部屋だったが、みんなカーテンを閉め、

赤ちゃんがいるはずなのに、静まり返っていた。

この病院は、「赤ちゃんの吸う力だけで母乳を出す」という

ポリシーだそうで、(つまり自然に任せる。)マッサージは一切してくれなかった。

   「自然に母乳が出てくるのに、3日ぐらいかかります。」

そう看護師に言われ、‘それまで何も飲ませないの?!’とびっくりしていると、

   「赤ちゃんは、何も飲まなくても3日間は死なないから大丈夫。」

とキッパリ言った。(・・本当か?絶対うそでしょう?!)

子供は、火がついたように泣き続けている。

 ・・・あたり前だ。生まれてから一度も、何も飲んでいないのだから。

一日一回沐浴させる時間があったが、沐浴のあとの白湯すらない。

   「お風呂に入ったあとは、赤ちゃんも喉が渇きますよね・・?

   白湯も飲ませちゃいけないんですか・・?」

もう二日、一睡もしていない私は、弱々しく看護師に尋ねた。

   「喉が渇く・・?」

看護師は、鼻でフンと笑うと、

   「喉なんて渇かないから大丈夫よ。」

そう答え、去って行った。

子供の一時預かりもあるにはあったが、三時間おきの授乳なので、

その時間になると連れてくるし、子供が泣くと連れて来ることに決まっていた。

生まれてから一度も何も飲んでいない娘は、起きている間はずっと泣き、

泣きつかれて眠る。・・・その繰り返しだった。

  ‘出産した後は、普通、家族や色んな人達が病室にお見舞いに来てくれたり、

   同室の人達と仲良く話をしたりして、人生で一番幸福感を味わうもの・・。’

そう思っていたが、その病院は、病室に入っていいのは旦那だけで、

あとの人は面会室。うちの主人は、夜中にしか来られないのだから、

その分、母ぐらい・・、と思うのだがダメだった。

友人や母が面会に来てくれたので、娘を預け、談笑していても、

何も飲んでいない娘は泣きっぱなしで、看護師がすぐ連れて来る。

病室は皆カーテンを引いているので、どういう人がいるのかも分からず、

しかも静かで、赤ちゃんの泣き声もほとんどしない。

娘の泣き声だけが病室に響き、私の精神状態はボロボロになっていった。

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出産

私は幼い頃から、母にこう言われ続けて育った。

  「 結婚する事が幸せとは限らない。結婚する事によって、不幸になる人もいる。

 逆に結婚をしなくても、やりがいのある仕事を持ち、社会に貢献する人もいる。

 ・・・子供を産む事が幸せとも限らない。子供によって(殺人を犯すとか)、

 死ぬ程の苦しみを味わう事もある。 ・・またその逆もある。

 何が幸せかは分からない。 あなたは、‘ 僕は子供はいらない!

 君がいてくれればいい! 君がいなければ、僕は生きてはいけない!’ 

 ・・・というぐらい、あなたを愛してくれる人が現れたら、結婚をしなさい。」

 ・・・別に母は、私が結婚出来ないとか、子供は産めないだろうとか、

そんな事は、全く思っていなかったようだが、

   「‘私は王女様よ☆ 結婚相手は、(選ばれるのではなく) 私が選ぶのよ!’

   ・・・と、思っていなさい。」 (・・・一体、何様だっていうんだ・・?)

 と言っていた言葉が象徴しているように、私に

   ‘体は悪くても、一人の人間として誇りを持って生きなさい!’

 と言いたかったのだと思う。

 ・・・ 別に主人は、私がいなくても生きていけるとは思うが(笑)、ともあれ、

私は人生最良のパートナーと出会った。

**********************************

県をまたいでの遠距離恋愛から、結婚まで9ヶ月のスピード婚。

お互い多忙だったので、頻繁に会う事はできなかったが、

電話は毎日のように、睡眠時間を削って掛け合った。

私は、2回目に会った時に言い忘れた事、

    「子供を産めるかどうか分からない。」

  という事も、電話で話した。

手術はしたので子供は産めるはずだったが、不安があった。

主人は子供が大好きだった。

大学時代、教師になる予定で資格を取っていたが、

先輩から話があり、悩んだ末に今の職業に就いていた事を、私は知っていた。

 一瞬の沈黙のあと、主人は言った。

    「子供が欲しいから結婚するわけじゃない。ゆららとの子供だから、

 欲しいと思うだけだ。別に、子供がいなくても構わない。 ・・・でも、大丈夫!

 手術をして、医者が太鼓判を押したんだろ・・?・・絶対に産めるよ!」

  事実その通りになった。

私は結婚後すぐに妊娠し(なんとハネムーンベイビー。)、

微弱陣痛で29時間という難産ではあったが、(逆に強心臓だった!)

自然分娩で、元気な女の子を出産することができたのだ。

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結婚

そんな私も、傷跡を抱えている割には、恋愛も普通に経験してきた。

まず相手も、「好き」という感情から始まるので、傷跡は何の障害にもならなかった。

私の病気遍歴を知った上で、プロポーズをしてくれた人も、

また体のことを知っているのに、有難いことに、「息子の嫁に」

と、言って下さる方も何人かいた。

********************************

28歳になった翌月、友人の結婚式があった。

主人とは、そこで知り合うことになる。

主人は新郎の高校時代からの親友。

私は新婦の友人。

私は新郎とは面識が無かったが、その妹や母親のことはよく知っていた。

結婚式が始まる直前、新郎の妹が、

     「ゆららさん。あの人どうですか?付き合ってみませんか?」

    と言ってきた。

目線をたどると、のちの主人がみんなと談笑している。

少し小太りで、眼鏡姿。私の好みとは、全く違っていた。

冗談で言っているのだ、という思いも手伝って、

      「え~?!」

    と、適当にはぐらかした。

その後、新郎の母からウチの母にも、電話で話しがあった。

      「すごくいい人で、家族みんなファンなんですよ!」

そう言ってたよ、と母が教えてくれたが、

      「・・・じゃあなぜ、妹が付き合わないんだ・・・?」

    と、思う程度だった。

それから一ヶ月後、友人から「会ってみない?」と、正式に電話があった。

私も最初は言葉を濁していたが、

      「会いもしないで断るなんて、私は何様だ・・?」

    という思いが込み上げてきて、一度会ってみることにした。

**********************************

会ってみると、全てにおいて衝撃的な人だった。

まず格好は、着古されたシャツとジーンズ姿。・・・一気に力が抜けた。

(あとで聞くと、それが‘いっちょうら’だったらしい。のちに会うたびに、

そのファッションセンスに驚かされる事になる・・。)

      「何か怖そう・・」

    と、思っていた見た目とは裏腹に、物腰が柔らかく(今思えば、

仕事柄なんでしょうね~。)、独特のα波が出るような、特徴あるしゃべり方&

声質は、目をつぶると眠ってしまいそうなぐらい心地良かった。

また、車に乗る瞬間から別れる瞬間まで喋り詰めだった事も、私を驚かせた。

   (実は沈黙が怖かったらしい・・。・・・あんたは芸人かっ!!)

しかしその話の内容は、とても興味のある真剣なものから、

腹を抱えて笑う抱腹絶倒ものやらで、私を全く飽きさせる事がなかった。

気がつくとあっという間に3時間がたっていた。

別れたあと、

    「また会いたいなぁ。」   「あの人と結婚する事になるかもしれないな。」

  と、思う自分が不思議だった。

二度目にあったのは、桜が満開の大きな公園。

その日は雨が降っていた。

桜の絨毯を踏みしめながら、傘をさして並んで歩く。

夢のように美しい風景だった。

初めて会った時に、心臓の手術をしたこと等は、すでに話してあった。

    「・・・だから私の体には、大きな傷跡があるんです。」

  はっきりと言っておかなければ。そう思い、主人の目をまっすぐ見て言った。

    「・・・別に私じゃなくても、あなたなら、他にいくらでもいると思います。」

主人の学歴や職業を考えると、私でなければならない理由はどこにもなかった。

それは自分を卑下しているわけではなく、その時の私の素直な気持ちだった。

ずっと黙って聞いていた主人は、静かに、

    「でもその傷跡は、あなたの○○の証しでしょ・・?」

  (大切な言葉なので、書けないの。ゴメン!)

  私の信念。私の誇りの象徴。

  家族にしか分からない思い。

  その的のど真ん中を、主人は射抜いた。

  胸が詰まった。

    「ずっと一人で苦しんできたんですか・・?・・僕は全く気にしません。」

そう言うと、(驚くことに!) 私の胸元のボタンを外し、傷跡を見た。

  私達は、その年の暮れに結婚をした。

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傷跡が癒えるまで

私が服を選ぶ時のポイント。

それは第一に傷痕が隠れる服かどうか、ということだ。

首まわりの広いものは着られない。

年頃の時なんかは、服を選んでいるとよく店員が寄って来て、

     「これなんか似合うんじゃないかなぁ?」

  と、胸元の開いた服を持ってきた。そんな時は、

     「それはちょっと・・・。」

  と、いかにも自分の趣味とは合わない、というそぶりで断った。

そんなことが繰り返されると、店員もいぶかしそうな態度になってくる。

  私もそのうち 

      「 ・・・面倒くさいなぁ。」

    と思えてきて、傷口が見えるか見えないか微妙な服なんかは試着をした。

  自分自身も、「これなら着れるかも!!」という期待も込めて。

      「やっぱりダメだ・・。」

  鏡に映った自分の姿に失望をする。

      「どうですかぁ~?」

    と店員の声。

仕方がないのでカーテンを開け、きわめて明るい声で、

      「ちょっと傷痕が見えちゃうんですよねぇ~。」

    と、いいながら、店員にその姿を見せると、店員は

      「あ・・・。」

    という感じで、とたんにその後は静かになり、寄りつかなくなる。

思春期だった私は、そんな店員の態度に、表面上は平静を装いながらも、

内心は深く傷ついていた。

高校生になり、普通に生活出来るようになった私は、

アルバイトでお金を貯め、よく友人達と旅行に行った。

ホテルというよりは、旅館に泊まることが多かったので、

お風呂は一緒に大浴場に入った。

友人達は(お互いに)、見るでもなく、見ないでもなく、自然に振舞ってくれた。

それがとても心地良かった。

その後も、社会人となり、一泊の研修会等でお風呂に入る時にも、

知り合いからジロジロとぶしつけな視線を送られたり、

      「痛そう・・。」  ・・・ とか、

      「大丈夫・・?」 ・・・ とか、

十何年も前の傷に対し、「心配そうな顔を作って」言ってくる人達がいたが

その頃には冷静に、

      「この人って、失礼な人だよなぁ。こういう人にはならないようにしよう。」

 と、思えるようになっていた。

私自身も見られるのが本当に嫌なら、時間をずらして入ったりと

いくらでも対処のしようがあったと思う。

でも今までそうしてこなかったのは、それこそ自分の傷跡を

「大変な手術に勝った勲章」 と思ってきたからにほかならない。

この歳になったら(37歳)、幸か不幸か、何も気にならなくなった。

先月まで住んでいた三重県では、しょっちゅう温泉に行っていたし、

主婦ともなれば、皆何かしらの修羅場をくぐりぬけてきているから、

誰も何も気にならないのだ。(・・・って、本当か?!)

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傷口

私の体には、当然の事ながら、心臓の手術の痕がある。

体の中心に。

鎖骨の下あたりから、おへそに向かって、約25cm程のものだ。

皮膚が弱かったのか糸が体に合わず、ケロイド状になってしまった。

私も中学までは運動を止められていたけれど、

高校に入ったら、急にすべてが解禁になった。

体育の授業。  ・・・夏は水泳だ。

学校指定の水着。  ・・・・どうしても5cm程、傷口が見えてしまう。

分からないぐらいの薄い傷ならともかく、プクっとふくれた醜い傷跡。

男女に分かれた水泳の授業。

プールの向こう側に男子全員が座り、先生の話を聞いている。

女子達はその前をランニングする。

それがプールに入る前の、お決まりのウォーミングアップだった。

女子が男子の前を走ると、決まってみんなが注目する。

私は走りながら、傷が分からないよう、手で隠す。

ただでさえ恥ずかしいのに、私は二重の恥ずかしさだ。

それより以前、私は体育の男の先生に事情を話し、

傷口の隠れる水着を着てもいいかと訊ねた。

みんなと違うデザインになるのも目立って嫌だが、

傷口が見えるよりはマシだった。

先生はいぶかしげに、

      「見せてみろ。」

              と、私に言った。

今考えればセクハラものだが、負けん気の強い?私は、  

セーラー服のボタンを外し、黙って傷口の上の部分を見せた。

 先生は、

       「 ・・・それは・・・。」 と、言葉に窮したあと、

       「 ・・それぐらいいいじゃないか・・。」 と言った。

    私はそれ以上なにも言わなかった。

小5の時、5歳下の従妹が家に泊まりに来た。

5歳も違うのに妙に気が合って、小さな頃からよく遊び、

お互いの家にもよく泊まり合った。

その従妹が、一緒にお風呂に入る時、私の傷口を見て、

       「気持ち悪い~!」   

       「怖い~!」

               と、悪気なく大きな声で言った。

子供だった私は、その時、言葉にならない程のショックを受けた。

でも次の瞬間、

       ‘そうだよな・・。これが現実。これが正直な反応なんだ。’

             とも思った。

中学生になると、私は主治医の男の先生に、

       「傷跡を消す手術を受けたい。」

             と相談をした。

先生は静かに微笑むと、

   「君は大変な手術に勝ったんだ。その傷跡を‘勲章’とは思えないかな?」

       と、私を優しく諭した。

  隣で母も、そうよ!と言いたげに微笑んでいる。

今思えば、素晴らしい先生だと思う。こんなことを言える人はなかなかいない。

この時の先生の優しい微笑みは、今でも脳裏に浮かんでくる。

でもこの時の私は、そうは思えなかった。

     「この人達には何も分からない。この人達は、人生の一番いい時を、

      もう終えてしまったのだから。」

    そう思っていた。

  「大変な手術に勝った。」 ・・・ その通りだ。

  傷口を‘勲章’だと一番思いたかったのは、誰でもない、「私自身」だった。

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中1~28歳までのこと

中1になっても同じだった。

中学はお弁当だったけど、その後保健室で休んだり、

体育を見学している姿を見て、異質なものを感じたのか、

最初仲良くしていた子達も、離れていった。

それらのことを、どこで知ったのかはわからないが、

母は担任に頼み、食後だった掃除が、放課後に変わった。

学校全体である。

部活動は運動部に入りたかった。

でも文化部でなければならない。

そこに決めた経緯は全く記憶にないが、

担任(定年間近のおばあちゃん先生)が顧問をしていた、家庭科部に入部をした。

家庭科なんか大っ嫌いだったのに、何で入ったんだろう?

でもそこで、大親友が出来た。

とても楽しかった。

私はある意味、部活動で救われた。

中2からは、仲の良かった子達と同じクラスになったことも手伝って、

イジメられることもなくなった。

高校に入学する頃には、運動制限も、食事制限も無くなった。

肝臓の肝機能の数値が、やっと正常値(35以下)を示し、安定してきたからだ。

医師からは、

    「原因不明の肝臓病だが、疲れを溜めないようにして、

           肝臓の値を常に正常値にしていれば、何の問題もない。」

  と言われ、それから結婚するまでの13年間は、普通の人達と変わらず、

私は青春を謳歌した。

それからの私は、短大に進み、大手旅行会社に勤務し、

疲れることをしてはいけないというわりには、夜中まで働き、

お酒も人以上に飲んでいた。

病院の方も、高校に上がってからは、年に1回行けばいい方で、

働きだしてからも、年に1回、会社の検診を受けるだけになっていた。

人よりハードな生活をしていても、ある意味、生活のリズムが出来てしまっているのか、

肝臓の数値は、ずっと正常値を保っていた。

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いじめについて

小5の時は外科に3ヶ月、小6の時は小児科に5ヶ月入院をした。

小5の時、担任の男の先生が、クラスみんなの手紙を病院まで持ってきてくれた。

とても嬉しかった。

当時は治療法もなく、ただ安静にしているだけ。

高タンパク、低カロリーのものを食べ、ただ寝ているだけ。

疲れることをしてはいけないと言われ、歩くこともほとんどなかった私にとって、

学校に行くなんて、夢のまた夢だった。

生まれつき心臓が悪かったと言っても、小4までは他の子達と変わらず、

クラスの男の子や女の子達と、毎日元気に遊びまわっていた。

先の見えないトンネル。でも、

    「みんなも待ってくれている!!絶対に治して、またみんなと遊ぶんだ!!」

このみんなからの手紙を心で抱きしめ、それからの日々を頑張った。

小5は1年間行けなかったので、(母に連れられ、一時間だけ・・ということで、

授業を受けたことはあったけど、それまで横になっていることがほとんどだった私は、

座っているだけで息切れがして、その後寝込んでしまった。)

実際に学校に復帰したのは小6になったが、その時は、

    「みんな!帰って来たよ!!」

                  という嬉しい気持ちで一杯だった。

夢のまた夢。不可能と思っていたことを実現したのだから。

メンバーは違うけど、みんな手紙のままの心・・と思い込んでいた。

学校側の配慮で、入院中、ずっと文通していた親友と同じクラスにしてくれた。

でも待っていたのは、イジメだった。

   「先生は‘給食を残さず食べろ!’と言う。でも残しているのに、

   何も言われないやつがいる。」 「掃除をさぼっているやつがいる。」

体育を見学していると、

   「走らなくてもいいから、いいよね。」 と言われる。(当時は辛い持久走だった。)

  放課もいつも一人だった。 好きな男の子がいたから、とてもつらかった。

  できないのは、私のせいではないのに。

      私だって、食べたいのに!!

      私だって、走りたいのに!!

      掃除だって、そんなもの、いくらだってやるよ!!

何で私のせいではないそんなことで、いじめられなくてはならないのか

さっぱりわからなかった。

今なら不登校ものだが、私は1日も休まなかった。

     「学校に行きたくない!」

と思う気持ちすら、許さなかった。

学校に行くことは、私の夢であり目標だったから。

それを希望に、今まで頑張って来たのだから。

両親に相談もしなかったし、泣きもしなかった。

何も悪いことをしてないのに、泣くなんて負け犬のようだし、

両親にみじめな姿をさらしたくなかった。

その後、担任の先生(男)が、私を一人、クラスから出して、

    「みんな、ゆららの気持ちを考えたことがあるのか?!」

              と、みんなに話してくれたらしい。

その後、女の子達みんなが、

    「ゆららちゃん、ごめんなさい~!!」

              と、泣きながら謝ってきた。

その後、表面上はみんなと仲良くしていたけれど、私の心は冷め切ってしまった。

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私の病気について

今日は私の病気について、少しお話ししようと思う。

一度では語りきれないから、何回かに分けて。

私はインターネットを始めた4年程前から、同じ病気の人の

ホームページを見たりしていて、随分励まされた。

病気を全面に出してるブログではないので、悩んでる人達のアクセスに、

あまりヒットはしないかもしれないけど、こういう人もいる・・、ということで、

少しでも力になれたら・・と思う。

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私は生まれつき心臓が悪く、小5の時に手術をした。

「心室中隔欠損症」という、いわゆる‘心臓に穴が空いている’というもので、

そんなに珍しい病気でもない。

ただ、弁膜の近くに空いていた、ということと、

小1の時にリュウマチという病気になり(二週間入院)、

その後4年間、抗生物質を飲んでいた・・、ということからなのか、

手術の成功率は、60%と聞かされていた。

子供だったので、特に親からの説明はなかったが、医師が母に向かって、

    「手術をしなければ、将来子供を産むことは出来ない。」

    「結婚生活に耐えられない体」

                 と言っていたのを覚えている。

  「結婚生活に耐えられないって何だろう?」

                 と、当時すごく不思議に思った。

医師は私の方を見て、ニヤニヤ笑っていたので、

後年それは、「夫婦生活」という意味だったのか?と思っている。

ともあれ小5の時に手術をして、無事成功。

   ・・と思ったのもつかの間、今度は原因不明の肝臓病になった。

わずか1,2週間ぐらいの間にである。

(その後、約20年後の出産時に、「C型肝炎」と告げられた。)

当時は病名が発見されておらず、「A(型肝炎)でもなく、B(型肝炎)でもない。」

という呼ばれかたをしていた。

「原因不明の肝臓病」だったので、治療法も薬もなく、

ただ運動制限と食事療法をするだけだった。

食事は塩分、醤油、砂糖、油、を止められていたので、味の無いようなものばかり。

(よく言えば、素材の味を楽しむ・・、という所でしょうか?)

肉なら鳥肉。それも大体ホイル焼き。

レバーや、あさり、しじみのお味噌汁。

今なら「いいじゃないの!!」というメニューだけど、当時は11歳。

ハンバーグや、天ぷらや、インスタントラーメンが大好きだった私にとって、

拷問以外の何ものでもなかった。

食事のあとは、2時間横にならなければならない。

つまり、消化するまで肝臓に負担をかけてはいけない・・という意味で。

運動はもちろん禁止。

小5は、1年間休学して自宅療養。

6年の2学期から、学校に通い始めた。

学校に通い始めても、どの教科よりも大好きだった体育は、いつも見学。

給食も食べてはいけないものが多く、残さざるをえなかった。

食べたくて食べたくて、仕方がないものを残す・・。とてもつらかった。

給食が終わると、みんなは掃除。でも私は、2時間保健室で横にならなければ

いけなかった。こんな生活を、私は5年間続けた。

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